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平成30年度鉄の未来科学館企画展「第二次世界大戦とたたら製鉄 出雲製鋼株式会社」のご案内

第二次世界大戦中、戦争のための鉄を中国山地の小さな山村・吉田村菅谷で作っていた事実をご存知ですか。

第二次世界大戦中における時局産業として、東京市神田区(現東京都千代田区)に出雲製鋼株式会社が設立されました。設立後、島根県飯石郡吉田村の菅谷たたらで鉄づくりをするため、社員たちは田部家や吉田村内外の村方と協議を繰り返します。

そして、昭和14年(1939)から村方による砂鉄採取が始まり、翌年から菅谷たたらでの操業が始まりました。できた鉄類は「玉鋼」と「鑪(たたら)銑(ずく)」に分けられ、これらを「雲州菅谷鋼」として販売しました。その販路は日本各地の刀匠、鉄工所や一部の刑務所、更には遠く満州にまで及びました。

今回の企画展では、昨年度より実施している菅谷たたら山内総合文化調査の中間報告として、米蔵に所蔵されていた出雲製鋼株式会社の関連史資料を中心に、第二次世界大戦中のたたら操業がどのようなものだったのか、その実像に迫ります。

 

会期  : 平成30年7月16日(金)~12月2日(水)

        ※休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)

場所  : 島根県雲南市 鉄の未来科学館

        島根県雲南市吉田町吉田892-1

                (0854)74-0921

主催  : 公益財団法人鉄の歴史村地域振興事業団

【支那事変とたたら製鉄の復活】

昭和12年(1937)日本と中華民国との間で武力衝突が立て続けに起こりました。翌年13年(1938)、日本は国力のすべてを軍需に注ぎ込むため国家総動員法が制定されました。製鉄産業は戦争のための産業となり、大正年間に絶えたたたら製鉄が再び注目されるようになりました。

既に昭和8年(1933)に現奥出雲町鳥上地区の靖国たたら(大呂たたら)が新設・操業を開始しており、国家総動員法が制定された後、帝国製鉄株式会社が卜藏家の所有していた原たたらを再興・操業(現奥出雲町竹崎地区・叢雲炉)するなど、再び奥出雲地方の山にたたらの火がいくつも灯りました。

このような背景の中、出雲製鋼株式会社も現雲南市吉田町・田部家の所有していた菅谷たたらを借り受け、出征軍人の日本刀や魚雷の部品の材料生産を目的としてたたら操業をスタートさせます。

【出雲製鋼株式会社の操業】

操業のめどがたつと、出雲製鋼株式会社は日本各地の刀匠、鉄鋼会社、刑務所などに先行予約販売の案内を送ります。商標は「雲州菅谷鋼」とし、由緒正しい菅谷たたらを再興した記念に特別価格で予約を受け付けると案内に謳ったところ、玉鋼の注文が殺到しました。

昭和15年(1940)の操業スタートと同時に玉鋼と鑪銑を出荷しますが、戦時下の運輸状況により発送トラブルが続きました。発送にあたっては鉄道が使用され、発注者が最寄駅で商品を受け取るというシステムでした。

現存する多くの受注書をみていくと、昭和43年(1968)に発行された『菅谷鑪』の内容とは大きく異なり、23代(23回の操業)では追いつけないほど、生産された玉鋼や鑪銑は好評だったと思われます。

【販路と撤退】

出雲製鋼株式会社は東京の本社と菅谷たたらで注文を受けるだけでなく、金物商や顧客が仲介者となり、販路を拡げていきます。その販路は日本国内では北は秋田県、南は熊本県、さらには満州の撫順に及びました。

しかし、注文が玉鋼の特選や一級品に集中したため、出荷の見込みがたたなくなってしまいました。加えて、本社から出向している社員と現地の職人との間に、仕事におけるルールなど意見の食い違いが生じてきました。

結果、昭和16年(1941)秋頃から、出雲製鋼株式会社は撤退の準備をはじめます。撤退準備の間、注文書は東京本社に転送し出荷をしています。チラシの写真は撤退を決めた時期に撮影されたものと思われます。

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